院長こらむ:玉名終末期医療を考える会・第5回講演会: 仏教と日本の終末期ケア

H19年6月9日、玉名終末期医療を考える会主催の第5回講演会のお世話をしました。今回は、龍谷大学教授で、日本医師会生命倫理懇談会委員もされている鍋島直樹先生をお招きし、”仏教と日本の終末期ケア”の演題で、講演をしていただきました。そのキーワードのみを記してみたいと思います。

<死のとらえ方>第三人称の死(抽象的で無名の人の死)第二人称の死(愛する人の死)第一人称の死(私自身の死の予感)がある。

<死を見つめる意味>死を見つめることは、優しさや慈愛を育むことになる。

<浄土教における死の看取り>源信(942~1017)は、「往生要集」のなかで、臨終行事の具体的な実践を取り上げている。それによると、「無常院」という病人を世話する施設が建てられおり、今で言うホスピス(仏教だからビハーラと言うべきか)のような活動をしていた。10世紀の日本で、すでに終末期ケアが行われていたということに驚かされ、感動した。源信自身も、五色の糸を握って臨終を迎えたと伝えられている。平安時代から鎌倉時代にかけて、多くの山越阿弥陀図が、この「往生要集」に学び、死にゆく人のために描かれた。鍋島先生は、国宝 山越阿弥陀図のミニチュアコピーを持参され、人形を使って、平安・鎌倉時代の臨終の場を再現して見せられました。鎌倉時代の法然(死は悲しくとも、尊いものである)その弟子親鸞(ありのままの死:死の現実を、悲しさと崇高さの両面から受けとめた)にも言及された。

<死にゆく人に対する看取りの姿勢>1.真実を共有する(いのちの無常さをともに知る)2.生の完遂をささえる(治療と延命。最期まであきらめずに尽くす医療。節度ある医療)3.全人的な痛みの緩和。4.何もできなくても、そこにいること。5.死別後の遺族の悲しみに長期間寄り添う。最後に、死を前にした方の詩(鈴木章子氏)や子供への手紙(平野恵子氏)を紹介され、すすり泣きが会場にもれていました。約260名の参加者があり、終末期医療に対する関心の深さがうかがわれた。

<ちょっと一休み>下は、春(6/2)の雪山登山(立山)です。北アルプスは、まだ雪景色です。

大観峰より見えた鹿島槍ガ岳 一の越山荘より眺望された槍ガ岳
立山(雄山)登山道よりホテル立山(室堂ターミナル)を望む。 雪の春山登山。アイゼンが必要でした。